女人も同じ人間「また、いまでもいたって愚かな人々の考えるところは、女性は性欲の対象であるとの考え方を脱していない。仏者はそうであってはならない。性欲の対象となるからとて忌むならば、また全ての男子をも忌むべきであろうか。不淨のもととなるということでは、男もそうであり、女もそうである。男でも女でもないものだってその対象となり、空相の所産すらもその対象となる。あるいは水にうつる影を縁として不淨を行じたというものもあり、あるいは天日を縁として不淨を行じたものもあった。神もその対象となり、鬼もその対象となる。その縁はかぞえつくすことをえず、八方四千の対象があるというが、それをすべて捨てねばならぬか、見てはにらないのか。「律蔵」にいはく、「男二所、女三所、おなじく波羅夷にして、共に住せず」と。だから、性欲の対象となるからとて嫌えば、すべての男子と女子とがたがいに相嫌って仏門に入る機会もまったくあるまい。その道理をつぶさに点検してみるがよろしい。また、外道にも妻をもたぬものがある。妻をもたないからとて、仏法にいたらねば外道である。おなじ仏弟子であっても、在家の信男信女には夫婦がおおい。夫婦であっも仏弟子であれば、人間界にも天上界にも並ぶものはないのである。(道元:正法眼蔵・礼拝得髄)
原文「また、いまだ至愚のはなはだしき人おもふことは、女流は貧婬所対の境界にてありとおもふこころをあらためずしてこれをみる。仏子かくのごとくあるべからず。婬所対の境となりぬべしとていむことあらば、一切男子もまたいむべきか。染汗の因縁となることは、男も境となる。女裳境縁となる。非男非女も境縁となる。夢幻空華も境縁となる。あるひは水影を縁として非梵行あることありき、あるいは天日を縁として非梵行ありき。神も境となる。神も境となる。鬼も境となる。その縁かぞえつくすべからず。八万四千の境界むありといふ、これみなすつべきか、みるべからざるか。律云、男二所女三所、おなじくこれ波羅夷不共住。しかあれば、婬所対の境になりぬべしとてきらはば、一切の男子と女子、たがひにあいきらふて、さらに得度の期あるべからず。この道理、子細に撿点すべし。」