「またもし、かって淫の罪を犯したことがあるとて嫌うのであるならば、すべての菩薩をも嫌わねばならない。もしまた、今後つみを犯すことがあろうととて嫌うのであるならば、すべての発心の修行者もきらわねばならぬ。そのように嫌うならば、結局はすべてみな捨てねばならない。仏法はいったい、何により誰によって実現するのであるか。そんな言葉は、まだ仏法を知らぬ痴人の狂言である。かなしいことである。もし汝の願いのごとくならば、釈尊およびその在世のころの諸菩薩は、みな罪を犯したことになるのか。また、彼らは汝よりも智慧を求める心が浅かったというのか。静に考えみるがよい。釈尊が教法の伝持をゆだねた祖師ならびに当時の菩薩たちは、その願いがなかったならば、仏法を学ぶことができなかったであろうか。僧考えてみるのがよいのである。またもし、その願いのごとくであったならば、女人を済度することができぬのみならず、得法の女人があらわれて世の人々のために法を説いても、到って聞くことができないではないか。もし到って聞かなかったならば菩薩ではない。つまり外道である。(道元:正法眼蔵・礼拝得髄)
原文「またむかし犯罪ありしとてきらはば、一切菩薩をもきらふべし。もしのちに犯罪ありぬべしとてきらはば、一切発心の菩薩をもきらふべし。かくのごとくきらはば、一切みなすてん。なにによりてか仏法現成せん。かくのごとくのことばは、仏法をしらざる痴人の狂言なり、かなしむべし。もしなんじが願のごとくあらば、釈尊および在世の諸菩薩、みな犯罪ありけるか、またなんじよりも菩提心もあさかりけるが、しずかに観察すべし。付法蔵の祖師、および仏在世の菩薩、この願なくば、仏法にならふべきところやあると参学すべきなり。もし汝が願いのごとくにあらば、女人を済度せざるのみらあらず、得法の女人よにいでて、人天のために説法せんときも、きたりてきくべからざるか。もしきたりてきかずば、菩薩にあらず、すなはち外道なり。」