「いまの大宗国をみるに、ながらく修行を続けてきたらしい僧たちが、むなしく海の砂をかぞえて、いつまでも迷いの海に流浪しているものがある。また、女人であるけれども、善知識に参じて修行し、人天の導師たるにいたっている者がある。餅を売らずして捨てた老婆もある。男子の僧でありながら、むなしく仏界のいさごをかぞえて、仏法はいまだ夢にも知らぬなどというのは、まったく可哀想なことだ。およそ、対象にたいしてそれをは明晰にすることを学がよい。怖じて遁げることのみ学ぶのは、小乗の聖者たちの行き方である。東をすてて西にかくれようとすれば、そこにもまた対象がないわけではない。たとい遁げおおせたと思っても、なお明晰にしないかぎりは、遠ざけたからとてなお対象はある。それはまだ解脱というものではない。遠ざけた対象には、かえって関心がいよいよ深いというものである。」(道元:正法眼蔵・礼拝骨髄)

原文「いま大宗国をみるに、久修練行に似たる僧侶の、いたずらに海砂をかぞへて、生死海に流浪せるあり。女人にてあれども、参じ尋知識し、弁道功夫して、人天の導師にてあるあり。餅をうらず、餅をすてし老婆等り。あはれむべし、男子の比丘僧にてあれども、いたづらに教海のいさごをかぞへて、仏法はゆめにもいまだみざること。おほよそ境をみては、あきらむることをならふべし。おぢてにぐるとのみならふは、小乗声聞の教行なり。東をすてて西にかくれんとすれば、西にも境界なきにあらず。たとひにげぬるとおもふとあきらめざるにも、遠にても境なり、近にても境なり。なほこれ解脱の分にあらず、遠境はいよいよふかかるべし。」

海砂をかぞ:海に入てその砂を数えるのは空しいくかつ尽きることがないであろう。それを譬えたもの。いたずらに経・論・釈に尋ねたりその分別の解釈に没頭するものをいう。