「ましてや釈尊は最高の等正覚者にましまして、明らむべきことはことごとく明かにし、行ずべきことはすべて実践され、脱ぎ捨つべきものはみな解脱された。いまの誰人もとおく及ばざるところである。それなのに、釈尊在世のころの集会には、いつも比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆があり,さらに八部衆があり、三十七部衆があり、八万四千の部衆があった。それらはみな仏の世界にむすんだかくれもない集会であるがそのいずれの集会にか、比丘尼がなく、女人がなく、八部衆ががなかったであろうか。如来在世のころの集会にもまさって清らかな結界を、われらは到底ねがうことはできない。いまは天魔の世であるからである。いったい、仏の世界のありようは、この世界とかの世界をとわず、三世もろもろの仏によって異なるところはない。異な法式があらば、それは仏の集会ではないと知るがよい。」(道元:正法眼蔵・礼拝得髄)

原文「いはんや、大師釈尊これ無上妙覚なり。あきらむべきことはことごとくあきらむ、おこなふべきことはことごとくこれをおこなふ、解脱すべきことはみな解脱せり。いまのたれか、ほとりにおよばん。しかあるに、在世の仏会に、みな比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷等の四衆あり。八部あり、三十七部あり。八万四千ぶあり。みなこれ仏界を結せること、あらたなる仏会なり。いずれの会か比丘尼なき、女人なき、八部なき。如来在世の仏会よりもすぐれて清浄ならん結界をば、われらがねがふべきにあらず。天魔界なるがゆゑに。仏会の法儀は,自界他方、三世千仏、ことなることなし。ことなる法あらんは、仏会にあらずとしるべし。」