「また、仏の弟子たちの順位は、大乗であろうと、小乗であろうと、第一は比丘、第二は比丘尼、第三は優婆塞、第四は優婆夷と、そうなっている。この順位は、天上界のものも人間界のものもみな知っているところで、昔から変わりはない。とするならば、仏弟子の第二位たる比丘尼は、転輪聖王にもすぐれ、帝釈天にもすぐれたものであろう。及ばないところはありえないのである。しかるに、いま比丘尼は入るべからずとする道場をみれば、田夫・野人・農夫・樵夫などもやたらに入っており、ましてや国王・大臣・百官・宰相などは勿論である。田夫などと比丘尼と、その学問を論じ、位階を論じたならば、その優劣はどうであろうか。たとい世俗の立場からいっても、仏法の立場からいっても、比丘尼のそれには、田夫・野人はとても及びもつかない。このはなはだしい困難は、この小国において見るところであって、三界の慈父たる仏の御弟子が、この国では道場に入ることを許されないなど、まことに悲しむべきことではある。」(道元:正法眼蔵・礼拝骨髄)

原文「また仏弟子の位は、菩薩にもあれ、たとひ声聞にもあれ、第一比丘、第二比丘尼、第三優婆塞、第四優婆夷、かくのごとし。この位、天上・人間ともにしれり、ひさしくきこえたり。しかあるを、仏弟子第二の位は転輪聖王よりもすぐれ、釈提桓因よりもすぐるべし。いたざるところあるべからず。いはんや小国辺土の国王・大臣の位にならぶべきにあらず。いま比丘尼いるべからずといふ道場をみるに、田夫・野人・農夫・樵翁みだれ入る。いはんや国王・大臣・百官・宰相、たれか入らざるあらん。田夫等と比丘尼と学道を論じ得位を論ぜんに、勝劣つひにいかん。たとひ世法にて論ずとも、たとひ仏法にて論ずとも、比丘尼のいたらんところへ、田夫野人あへていたるべからず。錯乱のきなはだしき、小国はじめてこのあとをのこす。あはれむべし。三界慈父の長子、小国にきたりてふさぎていたらしめざるとろありき。」