東坡居士が悟りをえたのは、それよりさき、常総禅師まみえて無情説法のはなしを聞いてからのある夜のことだったという。彼は禅師の言下に翻然として悟るには到らなかったが、その時谿声をきくにおよんで、逆まく波が天をうつの思いがあった。とするならば、いま谿声が彼のまなこを覚したのは、はたして谿声であったのか。それとも照覚の流れのそそぐところであったのか。もしかすると、照覚の無情説法のことばが、その響きいまだ休まずして、ひそかに谿流の夜の声に混じっていたのでもあろうか。だが、誰もそれをどれほどと測りうるものはない。また、それはやがて、大海にそそぐものだといいうるものない。つまるところは、居士が悟ったのか、山水が悟ったのか。誰か明眼ありて、ずばりと長舌相を見、清浄身を見るものがあろうか。(道元:正法眼蔵・谿声山色)

原文「この居士の悟道せし夜は、そのさきの日、総禅師と無情説法話を参問せしなり。禅師の言下の翻身の儀いまだしといへども、谿声のきこゆるところは、逆水の波浪たかく天をうつものなり。しかあれば、いま谿声の居士をおどろかす、谿声なりとやせん。照覚の流潟なりとやせん。うたがふらくは照覚の無情説法話、ひひびきいまだやまず、ひそかに谿流のよるの声にみだれいる。たれかこれ一升なりと弁肯せん、一海なりと朝宗せん。畢竟じていはく、居士の悟道するか、山水の悟道するか。たれの明眼あらんか、長舌相・清浄身を急著眼せざらん。」