「袈裟の着方6」「いったい、袈裟を作るというが、それは俗人が作ったものでも、僧家が作ったものでもない。その意味するところは、十聖・三聖などの究めるところではない。宿世の善根のないものは、一生・二生、乃至限りない生を経ても、袈裟を見ることも、聞くことも、知ることもできない。ましてや袈裟を受持することをえようか。また袈裟を身にまとうことも、得るものがあり、得ないものがある。すでに得たものは喜ぶがよく、いまだ得ないものは願うがよく、どうしても得ないものは悲しまねばならぬ。けだし、この全世界にああって、ただ仏祖の門下にのみ伝衣が伝えられていることは、天下のあまねく見聞し悉知するところである。また、仏衣のありようを明らかに知るのも、ただ仏祖の門にあるもののみである。他門のものはしらない。それを知らない者が、おのれを恨まなかったならば、それは愚かというものである。なんとなれば、たとい三昧に通じ、陀羅尼を知っていようとも、仏祖の衣法を正伝せず、袈裟のいわれを知らなかったならば、それは正しい法嗣ではありえないのである。」(道元:正法眼蔵・伝衣)

原文「作袈裟の作は、凡聖等の作にあらず、その宗旨、十聖三賢の究尽するところにあらず。宿植(しゅくじき)の道種なきものは一生二生、乃至無量生を経歴(きょうれき)すといへども、袈裟をみず、袈裟をきかす、袈裟をしらず。いかにいはんや受持することあらんや。ひとたび身体にふるる功徳も、うるものあり、えざるものあるなり。すでにうるはよろこぶべし、いまだえざらんはねがふべし、うべからざらんはかなしむべし。大千界の内外に、ただ仏祖の門下のみに仏衣つたはれること、人天ともに見聞普知せり。仏衣の様子をあきらむることも、ただ祖門のみなり、余門はしらず。これをしらざらんもの、自己をうらみざらんは愚人なり。たとひ八万四千の三昧・陀羅尼をしれりとも、仏祖の衣法を正伝せず、袈裟の正伝ほあきらめざらんは、諸仏の正嫡なるべからず。」