「仏衣の布在3」」また、袈裟の布材は、ひたすら粗布でなければならぬというのも、仏法にそむくこと甚だしく、殊に仏衣の伝統をやぶるものであって、仏弟子たるものは用いてならない。その理由はいかにといえば、布に関する見解だけを強調して、かえって袈裟の趣旨を破っているからであ。。小乗のやからの考えかたは、まったく曲がりくどくて可哀想なものである。ずばりといえば、汝の布見がやぶれて、はじめて仏衣が実現するのである。彼らが指摘するところの絹布を用いたものも、一人や二人の仏のみではない。諸仏のさだめは、ただ糞掃すなわち塵穢(じなんえ)のなかに捨てられた布を、すぐれて清浄な衣材としたのである。そのなかには、かりに十種の衣材があげられているが、それには、絹布のたぐいがあり、綿布の類があり、またその他の布がある。なかにつき、絹布の糞掃はとってはならないのか、そもしそうだとすれば、仏の道にたがう。絹布がいけないならば、綿布もいけないとしなければなるまい。絹布だけを嫌う理由がどこにあるのか。絹の糸は生きものを殺してつくったものであるからなどというのは、大いに笑うべきである。では、綿布は生きものに縁がないのか。何が生きもので、なにが生きものでないとするならば、まだまだ凡情を抜けきれないのであって、それでどうして仏の袈裟がわかろうか。」(道元:正法眼蔵)
原文「又ひとへにそ布を衣財にさだむこと、ふかく仏法にそむく、ことに仏衣をやぶれり。仏弟子きるべきにあらず。ゆゑはいかん。布見を挙して、袈裟をやぶれり。あはれむべし、小乗声聞の見、まさに迂曲かなしむべきことを。なんぢが布見やぶれてのち、仏衣見成すべきなり。いふところの絹・布の用は、一仏二仏の道にあらず、諸仏の大法として、糞掃を上品清浄の衣財とせり。そのなかに、しばらく十種の糞掃をつらぬるに、絹類あり、余帛(よめん)の類もあり。絹類の糞掃とるべからざるか。もしかくのごとくならば、仏道に相違す。絹すでにきらはば、布またきらふべし。絹布きらふべき、そのゆゑなににかある。絹絲は殺生より生ぜるときらふ、おほきにわらふべきなり。布は生仏の縁にあらざるか。情非情の情、いまだ凡情の情を解脱せず、いかでか仏化袈裟をしらん。」

