「この糞掃衣をもちいるのは、ただ徒に弊衣を着て、みすぼらしい様するためと思うのは、愚かのいたりというものである。むしろ荘厳にして整々たるために、、仏道にこれを用いてきたのである。仏道においてやつれた服装というのは、綿や綾や、金銀や珠玉をちりばめた衣服が、不淨の動機に由来しているのをこそ、みすぼらしいというのである。おおよそ、この世界とかの世界をとをず、仏道において清浄にして整々たるものを用いようとするならば、まさにこの十種がそれであろう。それは、淨・不淨の常識をこえているのみではなく、また、煩悩のありなしをこえ、形と心を問わず、得と失とを超越しているのである。ただこれを正伝し受持するものはすなわち仏祖である。仏祖となる時にはかならずこれを伝え受けるのだからである。仏祖としてこれを受持するとは、これをわが身に現ずるかどうかでもなく、また心にこれを挙げるかいなかでもなく、ただ正伝せられてそうなるのである。」(道元:正法眼蔵)

原文「この糞掃衣をもちゐることは、いたずらに弊衣にやつれたらんがためと学するは、至愚なるべし。荘厳奇麗ならんがために、仏道に用著しきたれるところなり。仏道にやつれたる衣服とならんことは、錦繍綾羅・金銀珍珠等の衣服の、不淨よりきたれるを、やつれたるとはいふなり。おほよそ此土他界の仏道に、清浄奇麗をもちゐるには、その十種それなるべし。これ淨不淨の辺際を超越せるのみにあらず、漏無漏の境界にあらず、色心を論ずることなかれ、得失にかかはれざるなり。ただ正伝受持かるがゆゑに、仏祖としてこれを受持するは、身の現不現によらず、心の挙不挙によらず、正伝せられゆくなり。」