「ただ、この日本においては、僧尼がこれまでこの袈裟をつけなかった。それは悲しむべきことであった。だが、いくやはじめて受持することをえたのは、喜ばしいことである。在家の男女でも、なお仏の戒を受持しようとする者は、五条・七条・九条の袈裟をつけるがよい。ましてや、出家の者はどうして着けないでよかろうか。梵天をはじめとする諸天の神々から、在家の男女、召使いたちにいたるまでも、仏の戒はこれを受けるがよく、袈裟はこれを着けるがよいという。ましてや、比丘・比丘尼がどうして袈裟をつけないでよかろうぞ。畜生すらもなお、仏の戒を受けるがよく、袈裟をかけるがよいという。ましてや仏の弟子たる者が、どうして仏衣を着けないでよかろうか。だから、仏の弟子になろうとする者は、天神と人間をとわず、国王と百官とを論ぜず、あるいは出家・在家、奴碑・畜生をえらばず、仏の戒を受持し、袈裟を正伝するがよい。それがまっすぐに仏の位にいたる道というものである。」(道元:正法眼蔵)

原文「ただまさにこの日本国には、近来の僧尼、ひさしく袈裟を著せざりつることをかなしむべし、いま受持せんことをよろこあ゛べし。在家の男女なほ仏戒を受持せんは、五条・七条・九条の袈裟を著すべし。しはんや出家人、いかでか著せぞらん。むはじめ梵天六天より、婬男・婬女・奴碑にいたるまでも、仏戒をうくべし、袈裟を著すべしていふ。比丘・比丘尼これを著せざらんや。畜生なほ仏戒をうくべし、袈裟をかくへしといふ。仏子なにとかしてか仏衣を著せざらん。しかあれば、仏子とならんは、天上人間・国王百官をとはず、在家出家・奴碑畜生を論ぜず、仏戒を受持し、袈裟を正伝すべし。まさに仏衣に正入する直道也。」