「最上無為の妙術は端坐参禅なり2」いま語らんとするこの修行と学道は、悟ってみれば、そこにあらゆる存在のあるがままの相(すがた)があり、そこを脱けでる出口の路は、いちでもただ一つである。そして、関所を脱けて自由になってしまえばもはやあれだこれだという小さなことはいらないのである。わたしは、発心して法を求めはじめてからこのかた、わが国のあらゆる方面に善知識を尋ねた。そして、ある時、建仁寺の明全和に見えることができた。ついて随っているうちに、たちまち九年の歳月がたった。その間には、いささか臨済の家風を聴くことを得た。この明全和尚は、祖師なる栄西禅師の高弟であって、ただ一人、最高の仏法を正伝した方である。けっして他の者と並べていうべき方ではない。」(道元:正法眼蔵)

原文「いまをしふる功夫弁道は、証上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。その超関脱落のとき、この節目にかかはらんや。予、発心求法よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらひき。ちなみに建仁の全公をみる。あひしたがふ霜華、すみやかに九廻をへたり。いささ臨済の家風をきく。全公は祖師西和尚の上足として、ひとり無上の仏法を正伝せり。あへて余輩のならぶべきにあらず。」