最上無為の妙術は端坐参禅なり4「しかしいま、しはしの間は、法をひろめようなどという心はうち忘れて、やがて法幢をたかく掲げる時もあろうから、その時の熟するまでは、しばらく悠々として悠々自適の生をたのしみ、いささか先哲の遺風にならわんものをと思っていた。だが、思いなおしてみると、もしもおのずからして、名利にかかわらず、道を思う心をさきとする真実の求道者があっても、いたずらによからぬ師らまどわされて、正しい解釈を見失い、むなしくひとりよがりに陥って、長く迷路をさまようことともなろう。それでは、いったい、なにによって正しい智慧の種を生長せしめて、ついに道を得るの時にあうことを得るであろうか。わたしはいま一処不住の生活をたのしんでいるのだから、どこに行かなくてはならぬということもない。ここは、ひとつ、それでは気の毒だと思うから、かつてわたしが大宗国にあって、まのあたりにかの地の禅林の有様を見聞し、また禅知識の意味深いことばを頂戴したことなどを記しあつめて、この道にまなびいたらんとする人にのこして、仏教の正しい教えを知らしめたいと思う。けだし、これこそは本物に間違いないからである。」(道元:正法眼蔵)
原文「しかあるに、弘通(ぐつう)のこころを放下せん。激揚のときをまつゆゑに、しばらく雲遊萍寄して、まさに先哲の風をきこえんとす。ただし、おのずから名利にかかはらず、道念をさきとせん真実の参学あらんか、いたづらに邪師まとはされて、みだりに正解(しょうげ)をおほひ、むなしく自狂にゐうて、ひさしく迷郷にしづまん。なにによりてか般若の正種(しょうしゅ)を長じ、得道の時をえん。貧道はいま雲遊萍寄をこととすれば、いづれま山川をかとぶらはん。これをあはれむゆゑに、まのあたりに大宗国にして禅林の風規を見聞(けんもん)し、知識の玄旨を稟持(ぼんじ)せしを、しるしあつめて、参学閑道の人にのこして、仏家の正法をしらしめんとす。これ真訣(しんけつ)ならんかも。」
稟とは;承の意。真訣とは奥義つまり本物の意。

