「坐禅の功徳3」「わが宗門の正伝としていわく、「この仏祖より仏祖へとじきじきに伝えてきた仏法は、最上のなかにおいても最上である。善知識にはじめてお目にかかってからは、もはやまったく焼香も、礼拝も、念仏も、修懺も、看経ももちいない。ただ打ち坐って身も心もともに脱ぎ去った境地に入るがよいのである。」もし人が、たとえ一時なりとも、その身口意の三業において仏をかたどり、端坐してその境地にひたる時、その時この存在の世界はことごとく仏をかたどり、あまねき虚空もまたすべて悟れるものとなる。だから、もろもろの仏・如来におかせられては、ますますその本来の法のたのしみを増し、いよいよ悟の荘厳りのすばらしい風情をあらたにするのである。さらにはまた、十方の世界のありとあらゆる生類たちも、みな一生に身心ともにきよらかとなって、すべてはみな自由自在なることを証しするのである。かくして、その本来の面目が現実となって目のまえに現われてくるのであるから、そのとき、もろもろの存在はすべて正覚を成就し、あらゆる物はみな仏身ならざるはなきにいたるのであるから、もはや悟ったの悟らないのといった限界はとおく超えられて、みんながひとしく菩提樹のもとにあって端坐し、ともどもに最高の大説法を展開して、最上無為なる深き智慧を説いでるのである。」
原文「宗門の正伝にいはく、「この単伝正直の仏法は、最上のなかの最上なり。散見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ」もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界皆仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。ゆゑに、諸仏如来をして本地の法楽をまし、覚道の荘厳をあらたにす。および十方法界・三途六道の群類、みなともに一時に真人明淨にして、大解脱地を証し、本来面目現ずるとき、諸法みに正覚を証会し、万物ともに仏身を枝葉して、すみやかに証会の辺際を一超して、覚樹王に端坐し、一時に無等等の大宝輪を転じ、究竟無為の深般若を開演す。」
無等等:ひとしき者のないこと、つまり最高の意。

