「心性について」「問うていう。あるものがいわく、「生死を嘆くことはない。生死をはなれる、彼について至極すみやかなる道がある。むそりーれは、いうところの心性は常に存して生滅することのないものだとの道理を知ることである。」その意味するところは、その身体こそは、生あればまたかならず滅にうつりゆくものであっても、この心性はけっして滅することはない。だから、よく生滅することのない心性がわが身にあることを知れば、それを本来の性とするのであるから、身はただ仮の相であって、此処に死し彼処に生ずるさざめなきものにすぎない。それ反して心はすなわち常に存して、過去も現在も未来も、けっして変わることがない。そのように知るのを、生死をはなれるというものである。その意味を知る者は、もはや従来の生死の考え方はなくなってしまって、この身が終わる時には、いわゆる性海に入る.性海とは、存在のあるがままの相を海にたとえていうことばである。そして性海に流れそそいでしまえば、もろもろの仏・如来のように、すばらしい徳がおのずから具わるのである。だが、いまはたとえ知り得ても、前世のまよえる業によってなれる身体としてあるから、もろもろの聖者とおなじではないのである。ただ、いまだこの意味を知らない者は、いつまでも生死の流転を繰り返さなければならない。、だから、すなわち、そいで心性の常住ということを知るがよいというのである。いだずら唖然として一生を過ごしたって、なんの期するところももないではないか。このようにいう意味は、いたい、これは本当に、もろもろの仏祖の道にかなったものであろうか、どうか。」(道元:正法眼蔵)

原文「とうていはく、あるがはく、生死をなげくことなかれ、生死を出離するいとすみやかなるみちあり。いはゆる、心性の常住なることわりをしるなり。そりむねたらく、この身体は、すでに聖ればかならず滅にうつりされゆくことありとも、この心性はあへて滅することなし。よく生滅にうつされぬ心性わが身にあることをしりぬれば、これを本来の性とするがゆゑに、身はこれ苅のすがなり。死此生彼さだまりなし。心はこれ常住なり、古来現在かはるべからず、かくのごとくしるを、生死をはなれたりとはいふなり。このむねをしるものは、従来の生死ながくたえて、この身をはるとき性海にいる。性海に朝宗するとき、諸仏如来のごとく、妙徳まさにそなはる。いまはたとひしるといへども、前世の盲業にになされたる身体なるがゆゑに諸聖とひとしからず。いまだこのむねをしらざるものは、ひさしく生死にめぐるべししんかあればすなはち、ただいそぎて心性の常住なるむねを了知すべし。いたずらに閑坐して一生をすごさんなにのまつとろあらん。かくのごとくいふむねは、これはまことに諸仏諸祖の道にかなへりや、いかん。

「心性」不変の心体。心の本質。「性海」とは性は存在の本質。そのありようを海にたとえての性海。「朝宗」とはもろもろの川の海に流れそそぐをいうことば。゛「盲業」虚妄にして実なき業。それが三世流転の因となるのだという。