「心性について」「示していう。いまのいうような考え方は、まったく仏法の考え方ではない。それは先尼外道なるものの説である。かの外道の考え方はこうである。ーわが身の中には、一つの霊妙な知がある。その知は、つまり、なにかにぶつかると、よく好悪をわきまえ、あるいは是非を判断する。痛い痒いを知り、苦しい、楽しいを知るのも、みなその霊妙な知の力である。しかるに、その霊性は、この身が滅する時には、この身を抜けてかしこに生まれるのであるから、ここでは滅するように見えるけれどもかしこに生まれているのであるから、いつまでも滅することなくして常住であるーかの外道の考え方はこんな具合である。それなのにねその考え方に倣って、それが仏法であるとするのは、たとえば、瓦礫をにぎって、それを黄金のたからと思うよりも、なお愚かである。その恥ずかしい馬鹿馬鹿しさは、たとえるものもない。唐の慧忠国師も、それをふかく誡めたことであった。思うに、心は常住であり、身は滅するなどと遍な考え方をはたらかせて、これを諸仏の教えに等しいなどといい、生死の本来の原因をとりあげて、それで生死をはなれたなどと思うなど、馬鹿馬鹿しいことではないか。なんとも可哀想なものである。そんなのは、ただ外道の曲がった考え方だと知るがよく、耳にもふれないがよろしい。(道元:正法眼蔵)

原文「しめしていはく、いまいふところの見、まったく仏法にあらず、先尼外道が見なり。いはく、かの外道の見は、わが身うちにひとつの霊知があり、かの知、すなはち縁にあふところに、よく好悪をわきまへ、是非をわきまふ。痛痒をしり、昏くをしる、みなかの霊知のちからなり。しかあるのに、かの霊性は、この身の滅するとき、もぬけてかとこにうまれるゆゑに、ここに滅すとみゆれども、かしこに生あれば、ながく滅せずして常住なりといふなり。かの外道の見、かくのごとし。しかあるを、この見をなろうて仏法とせん。瓦礫をにぎりて金宝とおもはんむよりもなほおろかなり。癡迷のはづべき、たとふるにものなし。大唐国の慧忠国師、ふかくいましめたり。いま心常相滅の邪見を計して、諸仏の妙法にひとしめ、生死の本因をおこして、生死をはなれたりとおもはん、おろかなるにあらずや、もともあはれむべし。ただこれ外道の邪見むなりとしれ、みみにふるべからず。」