「心性について」「だが、いまは、やむを得ず憐れみをたれて汝の曲がった考え方をすくってあげたい。知るがよろしい。仏教では、もとから、心神一如にして、のた性相不二なりという。身と心はひとつであって、また、本性と相状とは別々ではないというのであって、このことは、西の方天竺でも東の方中国でもやなじく知っていることであって、決して疑ってはならないところである。そらにいうならば、仏教のなかにおいても、常住を説く法門においては、よろずの存在はみな常住であるといって、身と心をわけるこはない。また空無を説く法門においては、もろもろの存在はみな空無であるというのであって、性と相とをわけることはない。それなのにどうして、身は滅すれども心は常住であるといえようか。それでは正しい理にそむくことになろう。そればかりではない、仏教においてはまた、生死はとりもなおさず涅槃であると悟るがよいのであり、いまだかって生死のほかにおいて涅槃を説いたことはない。ましていわんや、心は身をはなれて常住であると理解することが、それが生死をはなれた仏の智慧であると考えたとしても、その理解や知覚をいとなむ心は、にお生滅するものであって、けっして常住ではない。それではつまらないではないか。よくよく考えてみるがよろしい。(道元:正法眼蔵)
原文「ことやむことをえず、いまなほあわれみをたれて、なんぢが邪見をすくはん。しるべし、仏法には、もとより心身一如にして、性相不二なりと談ずる。西天東地おなじくしれるところ、あへてうたがふべからず。いはんや常住を談ずる門にには、万法みな常住なり、身と心をわくことなし。寂滅を談ずる門には、諸法みな寂滅なり、性と相をわくことなし。しかあるを、なんぞ身滅心常といはん、正理にそむかざらんや。しかのみならず、生死はすなはち涅槃なりと覚了すべし、いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし。いはんや心は身をはなれて常住なりと領解するをもて、生死をはなれたる仏智に盲計すといふとも、この領解知覚の心は、すなはちなほ生滅してまたく常住ならず。これ、はかなきにあらずや。嘗観すべし。」

