「心性について」「また、知るがよろしい。仏法において、心性を「大総門の法門」というのは、この大いなる存在の世界をひっくるめて、まったく性と相とをわかつこともなく、生の滅のということもないのをいうのである。発心・修行よりこのかた悟りを開き涅槃にいたるまで、全て心性ならざるはないというのである。あるいはまた、一切のもろもろの存在も、よろずの現象のならびおころさまも、すべてはただ一心のしからしめず、かかわらざるところはないというのである。つまり、この仏教のもろもろの法門が、ひとしくみな一心の関わるところで、けっしてそれに異なるところはないと説く。それこそ仏教においていう心性をよく知っておるものといえよう。それなのに、ここでは、身と心を区別し、また生死と涅槃をわかって考えようとしているが、そんな必要はすこしもないことである。わたしどもはすでに仏教者である。外道の考え方かたる狂者のことばなどに耳を貸してはならない。」
原文「しるべし、仏法に心性大総相の法門といふは、一大法界をこめて、性相をわかず、生滅をいふことなし。菩提涅槃におよぶまで、心性にあらざるなし。一切諸法・万象新羅、ともにただこれ一心にして、こめずかねざることなし。このもろもろの法門、みに平等一心なり。あへて異違なしと談ずる、これすなはち仏家の心性をしれる様子なり。しかあるを、この一法に身と心を分別し、生死と涅槃とをわくことあらんや。すでに仏子なり、外道の見をかたる狂人のしたのひびきをみみにふるることなかれ。」
「大総相の法門」とは心頓真如ということは、とりもなおさずこの存在の世界のすべてに通ずるものを説いているのだとするのである。「菩提涅槃」とは、発心・修行・菩提・涅槃に四つの道程のうち、「発心・修行より」略して「菩提涅槃におよぶまで」という。菩提はまた成道という」

