「坐禅と在家者」「問うていう。この坐禅の行は、在俗の男女もつとめることができるものであろうか。それとも、ひとり出家の人のみの修行であろうか。示していう。祖師の仰せには、仏法を会得することは、男女をえらび、貴賤をわかってはならないと見える。問うていう。出家の人はこの世の雑事をはなれてしまっているから、坐禅修行にさわりがないであろうが、在俗のものには、いろいろとうるさい務めがある。これは、いったい、どのようにしてひたぶるに修行すれば、自然に仏道にかなうことができるであろうか。示していう。そもそも仏祖はあわれみの心をもってこそ、この広大なる慈しみの門をひらいたものである。これはすべての人々をして入らしめようとするものであって、誰だって入れないものがあっては成らない。だからして、古今をたずぬれば、その証はすくなくない。さしあたりね代宗や順宗などの方は、帝位にあって天下の生児を司り、たいへん忙しかったけれども、なおよく坐禅修行して、仏祖の大道を会得することを得た。また、李相国や防相国といった方は、いずれも帝を輔佐する位にあって、その股肱たりし人物であるが、なおよく坐禅修行してね仏祖の大道を悟ることを得た。そりも、志のありしによるのであろう。在家であったかしゅっけであったかの関わるところではあるまい。また、よくなにが大事でなにが大事でないかをわきまえる人は、おのずから信ずるところもあろう。ましてや、世の中の務めが仏法を妨げると思うものは、ただ世の中には仏法がないということのみを知っていて、まだ仏法のなかには世間のようなことはないということを知らないのである。(道元:正法眼蔵)

原文「とうていはく、この行は、在俗の男女もつとむべしや、ひとり出家のみ修するか。しめしていはく、祖師のいはく、仏法を会すること、男女貴賤をえらぶべからずときこゆ。とうていはく、出家人は、諸縁すみやかにはなれて、坐禅弁道にさはりなし。在俗の繁務は、いかにしてか一向に修行して、無為の仏道にかなはん。しめしていはく、おほよそ、仏祖あはれみのあまり、広大の慈門をひらきおけり。これ一切衆生を証入せしめんがためなり。人天たれかいらざらんものや。ここをもて、むかしいまをたずぬるに、その証これおほし。しばらく代宗・順宗の、帝位にして万機いとしげかりし、坐禅弁道して、仏祖の大道を会通す。李相国・防相国、ともに輔佐の臣位にはんべりて、一天の股肱たりし、坐禅弁道して仏祖の大道に証入す。ただむこれ、こころざしのありなしによるべし、身の在家出家にかかはらじ。又ふかくことの殊劣をわきまふる人、おのずから信ずることあり。いはんや世務は仏法をさゆとおもへるものは、ただ世中に仏法なしとのみしりて、仏中に世法なきことをいまざしらざるなり。」