「坐禅と末法」問うていう。この行はいまの末代の悪しき世においても、なお修行すれば悟りを得ることができろであろうか。示していう。仏教の理論をあげつらう宗派においては、いろいろの名目をたてて、法相をかたるのであるが、なお大乗至極の教えを説く宗派においては、正法・像法・末法をわかつことはない。修すればみな仏道を悟り得るという。ましていわんや、この仏祖からじきじきに伝受される正法においては、悟るにしても、自由な境地にあそぶにしても、それはいずれも自分の財宝を味わうことにほかならない。だから、悟ったかどうかも、それを修するものが自然に知ることであって、それはちょうど水を得るものが、その冷たい温かいを自分で知るようなものである。(道元:正法眼蔵)

原文「とうていはく、この行は、いま末代悪世にも、修行せば証をうべしや。しめしていはく、教家に名相をこととせるに、なほ大乗実教には、正法末法をわくことなし、修すればみな得道すといふ。いはんやこの単伝の正法には、入法出身おなじく自家の財宝を受用するなり。証の得否は、修せんものおのづからしらんこと、用水の人の冷煖をみづからわきまふるがごとし。」

「名相」とは名目・法相である。名目とは、法門の名称であ、法相とはその理論である。さまざまな学説があるということである。「入法出身」証入することと自由の境地に遊ぶこと。