「即心是仏ということ」問うていう。ある者がいうにはー仏法においては、即心是仏(すなわち心これ仏)という意味をよくよく弁(わきま)えたようなものは、口に経典を誦せずとも、また身に仏道を行ぜずとも、なおよく仏法において欠くるところはないのである。ただ、仏法はもともと自己にあるのだと知れば、それで仏道は全て悟り得たのである。そのほかには、さらに他にむかって求むべきものはない。ましていわんや、わざわざ坐禅修行などをいとなむの要があろうか。-とそのようにいうものがあるが、いかかであろうか。示していう。そのことばは、まったくとるに足りない。もし、汝がいまいうようなものであるならば、心ある人々は、たれかその由を教えてくれるであろうから、知らないはずはないのである。知るがよい。仏法というものは、まさしく自他という考え方をすててまなぶべきものである。もしも、自己はすなわち仏なりと知ることをもって仏を悟ることだとするならば、そのむかし釈尊がわざわざ教化伝道の労をいとなまれようはずはない。」(道元:正法眼蔵)
原文「とうていはく、あるがいはく、仏法には、即心是仏のむねを了達しぬるがごときは、口に経典を誦せず、身に仏道を行ぜざれども、あへて仏法にかけたるところなし。ただ仏法はもとより自己にありとしる、これを得道の全円とす。このほかさらに他人にむかひてもとむべきにあらず、いはんや坐禅弁道をわずらはしくせんや。しめしていはく、このことば、もともかなし。もしなんじがいふがごとくならば、こころあらんもの、たれかこのむねをしへんに、しることなからん。しるべし、仏法は、まさに自他の見をやめて学するなり。もし自他即仏としるをもて得道とせば、釈尊むかし化道にわずらはじ。しばらく古徳の妙則をもとこれを証すべし。」

