「坐禅しなくても悟るではないか」「問うていう。印度や中国の古今のことをきくと、あるいは竹の音を聞いて道を悟ったものがあり、あるいは花の色を見て心がわかったというものもある。ましていわんや、釈尊は明星をみたときに道を成じ、阿難尊者は門前の旗竿か゜たおれたとき法を証したという。それのみならず、六祖より以後、五家にいたるまでの間にも、一言・半句によって仏の心印を証得したというものがおおいが、彼らはかならずしも、みなかって坐禅修行をしたものばかりではあるまい。示していう。古今にわたって、色を見て心をあきらめ、声を聞いて悟ったというその人たちは、いずれもみな、道を修するにあたっては、ありこれと思いまどうことなく、ずばりと純一無雑にして修行にはげんだことを知るがよろしい。(道元:正法眼蔵)ん
原文「とういはく、乾唐の古今をきくに、あるいはたけのこゑをききて道を悟り、あるいははなのいろをみてこころをあきらむるものもあり。いはんや釈迦大師は、明星をみしとき道を証し、 阿難尊者は、刹竿のたふれしところに法をあきらめし。のみならず、六代よりのち、五家のあひだに、一言半句のしたに心地をあきらむるねりおほし。かれらかならずしも、かって坐禅弁道するもののみならんや。しめしていはく、古今に見色明心し、聞声悟道せし当人、ともに弁道に擬議量なく、直下に第二人なきことをしるべし。」
「擬議量」あれやこれやと思いとどまること。「第二人なきこと」迷いのないこと、純一無雑であること。

