「姿勢を正しくしピタリと坐るがよい。左が高くなったり、右に傾いたり、前にかがみ、後ろに仰向けになるなどしてはいけない。かならず耳と肩とが一直線になり、鼻と臍とが一直線になるようにするがよい。舌は上の顎につけるがよい。息は鼻から通すがよい。唇と歯とはくっつけるがよい。目を開けておくがよい。あまり見張らず、あまり細めないのがわよろしい。そのように身と心をととのえ口を大きく開けて一息するがよろしい。そのようにぴたりと坐って、かの不思議なところを思量するのである。では、不思量のところをどのように思量すべきか。それはもはや思量ではない。それがとりもなおさず坐禅の骨である。坐禅とは、禅定を修することではない。それは大安楽の法門であり、絶対の修行なのである。」(道元:正法眼蔵)

原文「正身端坐すべし。ひだりにそばだぢ、みぎへかたぶきまへにくぐまり、うしろにあふぐことなかれ。かならず耳と肩と対し、鼻と臍と対すべし。舌はかみの顎(あぎと)にかくべし。息は鼻より通ずべし。くちびる歯あひつくべし。目は開すべし、不張不微なるべし。かくのごとく身心をととのえて、欠気一息あるべし。兀兀と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすははち坐禅の法術なり。」坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汙(ふぜんな)の修証なり。」正法眼蔵 坐禅儀 爾時、寛元元年癸卯冬十一月、在越州吉田県吉峰精舎示衆。

「欠気一息」欠はあくび。大きく口をあけて一息するのである。「兀兀」つとめてやすまない様をいうのであるがここでは端坐である。「思量箇不思量底」端坐しておもうことはね仏のことでもなく法のことでもなく、悟りの事でもなくあるいは何可利理解のことでもない。ただ非思慮である。「習禅」ただ坐ること。

「不染汙」仏にならうの同証といった思いのはからいのまったく介入しない修行。不染汙には清浄の意がある。また絶対の意がある。絶対の修行であるからそれは只管打つ坐に他ならない。