「杜撰の見解に対する批判」「しかるに、近年、愚かにして杜撰なおやからは「坐禅の修行は心のうちの蕪辞を得ればそれて゛よいのだ。つまり、それは平穏な境地というものだ」などといっている。そのような見かたは、小乗の学者にすら及ばず、世間の人々よりも劣るもので、とても仏法を学ものとはいえない。ところが、現在、大宋国には、そのような坐禅の修行者がおおいのであるから、祖道のおとろえを嘆かざるをえないのである。また、こんなことをいう連中もいある。ー坐禅して道を修めるのは、初心や後進の者のすることであって、必ずしも仏祖のなすところではない。 行くも禅、坐するも禅、・語・黙・動・静すべておのずから安然たるべきであって、ただ坐禅の修行にのみこだわってはならない。ー臨済の流れを汲む途称する連中は、たいていそのような見解である。仏法の正しい命をびたりと伝えないから、こんないい方をすることとなるのである。」(道元:正法眼蔵・坐禅箴 )
原文「しかるに、近年のおろかなる杜撰いはく、功夫坐禅、得胸襟無事了、便是平穏地也。この見解、なほ小乗の学者におよばず、人天乗よりも劣るむなり。いかでか学仏法の漢といはん。見在大宋国に、恁麼の功夫人おほし、祖道の荒蕪かなしむべし。又一類の漢あり、坐禅弁道は、これ初心晩学の容機なり、かならずしも仏祖の行履にあらず、行亦禅坐亦禅、語黙動静体安然なり、ただいまの功夫のみにかかはることなかれ。臨済の余流と称するともがら、おほくこの見解なり。仏法の正命つたはることおろそかなるによりて、恁麼道するなり。」

