「山は大聖のいますところである。」「山ははるかなる古より大聖の居すところである。賢人・聖者はともに山を住まいとし、山を身心となした。賢人・聖者によって山はその意味を実現したのである。いたい、山にはどれほどの大聖・賢人が入ったことであろうかと思うのであるが、山に入ってからは、誰もたがいに相逢うようなことはなかった。ただ山のはたらきが現れるのみである。山に入った跡さえものこっていないのである。さて、世間にあって山を眺める時と、山中にあって山と相逢う時とでは、その顔つきも眼つきもはるかに違っている。人は山は流れぬという。その憶測・知見は、すでに竜魚のそれとおなじではない。人間が自分の世界にあって考えていることは、他類のものの疑うところ、、あるいは 疑ってもみないところであろう。だから「山は流れる」という仏祖のことばを学がよいのである。ただ驚き疑いにまかせておいてはならぬ。その一つをとれば「流れる」であり、他の一つをあぐれば「流れぬ」である。ある時は「流」であり、またある時には「不流」である。そこを学び究めなくては、如来の教えは解らないのである。(道元:正法眼蔵)
原文「山は超古超今より大聖の所居なり。賢人聖人、ともに山を同奥とせり、山を身心とせり。賢人聖人によりて、山は現成するなり。おほよそ、山はいくばくの大聖大賢いりあつまれるんとおぼゆれども、山はいりぬるよりこのかたは、一人にあふ一人もなきなり。ただ山の活計の現成せるなり。さらにいりきたりつる蹤跡なほのこらず。世間にて山をのぞむ時節と、山中にて山にあふ時節と頂寧眼晴はるかにことなり。不流の憶想および不流の知見も、竜魚の知見と一斉なるべからず。人天の自界にところをうる、他類これを疑著し、あるいは疑著におよばず。しかあれば、山流の句を仏祖に学すべし、驚疑にまかすべからず。拈一はこれ流なり。拈一これ不流なり。一回は流、一回は不流なり。この参究なきがごときは、如来正輪にあらず。」

