「水に住める聖者のこと」「また、むかしからの賢人・聖者のなかには、ときどき水に住んだものもある。水に住んでは、魚を釣るものもがあり、人を釣るものがあり、また道をつるものがある。それらはみな、古来から水にあっての風流である。さらにすすんでは、自己を釣るものもあるであろう。釣りを釣るものもあるであろう。また釣りにつられることもあろうし、道につられることもあろであろう。むかし徳誠和尚は、飄然として薬山をはなれ、華亭江に舟をうかべて住んだが、まもなくそこで賢聖を獲たという。その間には、魚釣ったであろう。人も釣ったであろう。水を釣ったであろう。また自分自身をも釣ったであろう。その人が徳誠に逢うことができたのは、その人が徳誠であるからであり、徳誠がその人に逢ったのは、自分自身に逢ったのである。いったいこの世界に水があるというが、ただそれのみではない。また水の中にも世界があるのである。さらに、水の中がそうであるのみでなく、雲の中にも生き物の世界があり、風の中にも生き物の世界があり、火の中にも衆生の世界があり、地の中にも衆生の世界があり、全世界の中に衆生の世界がある。あるいは、一茎の草の中にも衆生の世界があり、一振りの杖の中にも衆生の世界がある。そして衆生の世界のあるところには、そこにまた、かならず仏祖の世界がある。そのような道理をよくよく聞いて学ぶがよい。」(道元:正法眼蔵)

原文「あるいきむかしよりの賢人聖人、ままに水にすむもあり。水にすむとき、魚をつるあり、人をつるあり、道をつるあり。これともに古来水中の風流なり。さらにすすみて自己をつるあるぼし。釣りにつらるるあるべし、道につらるるあるべし。むかし、徳誠和尚、たちまちに薬山をはなれて江心にすみし、すなはち華亭江の賢聖をえたるなり。魚をつらざらんや、人をつらざらんや、水をつらざらんや。人の徳誠をみることをうるは、徳誠なり。徳誠の人を接するは、人にあふなり。世界に水ありといふのみにあらず、水界に世界あり。水中のかくのごとくあるのみにあらず雲中にも有情世界あり、風中にも有情世界あり、火中にも有情世界あり、地中にも有情世界あり、法界中にも有情世界あり、一茎草中にも有情世界あり、一挂杖にも有情世界あり。有情世界あるごときは、そのところ、かならず仏祖世界あり。かくのごとくの道理、よくよく参学すべし。」