「とするならば、水はすなわち真竜の住むとひころろであって、それはただ流れ落ちるのみではない。流れるのみだというのは、そのことばがすでに水を謗っているのである。だから、たとえば、水は流るるにあらずと無理にもいわねばならぬのである。水は水のあるがままの姿でよいのである。水は、水そのものであって、流れではないのである。。一つの水の流るるをきわめ、流れざるを究むれば、あらゆる存在を究め尽くすことも、またたちまちにして成るのである。また、山にも、宝にかくれる山があり、沢にかくれる山があり、にかくれる山があり、山にかくれる山がある。そのかくれるところに山の山たる所以があることを学べきである。古仏はいう、「山はこれ山、水はこれ水」とそのいうところは、凡情のこるところの山を「これ山」というのではなく、仏祖のみるところの山を「これ山」だというのである。だからして、よく山をまなび究めるがよく、山をまなび究むれば山に教えられるところがあろう。そのような山水は、おのずからして賢を生み、聖を成すのである。」(道元:正法眼蔵)
正法眼蔵 山水経 この時、仁治元年十月十八日子の刻、観音導利興聖寶林寺にありて衆に示す。
原文「しかあれば、水はこれ真竜の宮なり、流落にあらず。流のみなりと認ずるは、流のことば、水を謗するなり。たとへば非流と強為するがゆゑに、水は見ずの如是実相のみなり、、水是水功徳なり、流にあらず。一水の流を参究し、不流を参究するに、万法の究尽たちまちに現成するなり。山も宝にかくるる山あり、沢にかくるる山あり、空にかくるる山あり、蔵に蔵山する参学あり。古仏云「山是山、水是水」この道取は、やまこれやまといふにあらず、やまこれやまといふなり。しかあれば、やまを参究すべし。山を参窮すれば、山に功夫なり。かくのごとくの山水、おのずから賢をなし聖をなすなり。」
「真竜の宮」真竜とは仏祖のこと、宮は住居である。
今日の言葉「日々これ好日」どんな日でもよいと思い過ごしましょう。雨の日も風の日も心持ち一つでよい日となります。

