「法華転転法華1」「一大事とはなにか」大唐国の広南東路韶州なる曹谿山法林寺の大鑑慧能の会座に、法達という僧かやってきた。彼はみずから称して、「われは法華経を読誦することすでに三千部なり」といっておった。。 慧能はいった。「たとえ法華経を一万部読んだところでその根本解を得なかったなら、わが過ちを知ることができないであろう」と。法達はいった。わたしは愚鈍でありますから、これまでただ文字にまかせて読誦してきました。どうしてその意味をあきらかにすることができましょうか」慧能はいった。「では試みに一度読誦してみなさい。汝のために解説してやろう」そこで宗達はその経を方便品まで読み到ったとき慧能はいった。「そこで止めなさい。この経はもともと理由があって生まれたものである。いろいろの喩えが説かれているけれども、それもその他のことではない。その理由とはなにかというに、それはただ一つの大事にほかならない。その一つの大事とは、すなわち仏の知見である。その知見を開示し悟入せしめることである。悟入すればそれがおのずから仏の知見である。すでに知見を具すれば、その人はすでに仏である。汝はいまやまさに信ずるがよい。仏の知見とはただ汝みずからの心である。慧能は重ねて偈をもって示した。「心迷えば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず、誦すること久しくとも己を明めざれば、義のために讐家となる。無念の念はすなわち正にして、有念にして、有念の念は邪となる。有と無をともに計らわざればとこしえに白牛車に御せん」法達はその偈をきいて、重ねて慧能にいった。「経にももろもろの声聞もしくは菩薩がみな思いを尽くして量らんすれども、仏智をはかることができなかったと申します。いま凡夫をしてただ自己の心を悟らしめるのが、仏の知見にほかならぬと仰せられるが、上根ものではなくては、とうてい疑わざるを得ません。また経には、三車の喩えが説かれているが、大牛車と白牛車とは、どのように違うのでありましょうか。願わくはもう一度お説きください。(道元:正法眼蔵・法華転法華)

原文「大唐国広南東路、韶州曹谿山法林寺大鑑禅師慧能の会に、法達という僧まゐれりき。みずから称す、われ法華経を読誦為ることすでに三千部なり。祖いはく、「たとひ万部におよぶとも経をえざらんは、とがをしるにもおよばざらん。法達いはく、「学人は愚鈍なり、従来ただ文字にまかせて誦念す。いかでか宗趣をあきらめん」祖いはく、「なんじこころみに一遍を誦すべし、われなんぢのために解説せん」法達すなはち誦経す。方便品にいたりて祖いはく、「とどまるべし。この経は、もとより因縁出世を宗旨とせり。たとひおおくの譬喩をとくも、これよりこゆることなし。何者因縁といふに、唯一大事なり。唯一大事は、即仏知見なり、開示悟入なり。おのづからこれ仏之知見なり。己具知見、彼既是仏なり。なんぢいままさに信ずべし。仏知見者、只汝自心にり」かさねてしめす偈にいはく、「心迷法華転 心悟転法華  誦久不明己 与義作讐家 無念念即正 有念念成邪 有無倶不計 長御白牛車」法達すなはち偈をききて、かさねて祖にまうす、「経にいはく、諸大声聞 乃至菩提、みな尽思度量するに、仏智はかることあたはず。いま凡夫をしてただし、自心をさとらしめんを、すなはち仏の知見となづけん。上根にあらずよりは、疑謗をまぬかれがたし。また経に三車をとくに、大牛車と白牛車と、いかなるくべつあらん。ねがはくは和尚ふたたび宣説を垂れんことを」」