「その趣をいわば、三乗十二分教は仏祖の説きたもうたものである。その教えは仏祖のまします時と処にも説かれ、仏祖なき時と処にも説かれる。また祖師の以前にも以後にも説かれる。さらにいえば、そこから仏祖も生まれてくる。だが、祖師の西来のまさしきその時には、その教えは総じて不要なのである。総じて要せずというのは、それを用いないわけでもなく、それを捨てるわけでもない。だた、その教えは、その時、すべて要せずと説かれるのである。三乗十二分教がないのではない、ただ総じて要せずと説かれる。そのような時かあることを知るべきである。総じて不要であるがゆえに、三乗十二分教なのである。三乗十二分教であるがゆえに三乗十二分教ではないのである。かくて、三乗十二分教は総じて要せずはと表現したのである。では、その三乗十二分教について、いろいろとあるなかの一部をあげて、次に示しておこう。」
原文「その宗旨は、三乗十二分教は仏祖の法輪なり、有仏祖の時処にも転ず、無仏祖の時処にも転ず。祖前祖後も同じく転ずるなり。さらに仏祖を転ずる功徳あり。祖師西来意の正当恁麼時は、この法輪を総不要なり。総不要といふは、もちゐざるにあらず、やぶるにあらず。この法輪、このとき総不要輪の転ずるのみなり。三乗十二分教なしといはず、総不要の時節を覰見(ちょけん)すべきなり。総不要なるがゆゑに三乗十二分教にり。三乗十二分教なるがゆゑに三乗十二分教にあらず。このゆゑに、三乗十二分教総不要と道取するなり。その三乗十二分教そこばくあるなかの一隅をあぐるには、すなはちこれなり。」(道元:正法眼蔵・仏教)

