「道元の坐禅箴」「宏智禅師の坐禅箴は以上のごとくである。歴代の宿老のなかにも、このような坐禅箴はみることをない。諸方の俗物と

どもが、もし この坐禅箴のような見事なむ表現をこころみようとしても、一生や二生ではとても及ばぬところである。いま諸方をたずねても、こんな坐禅箴は他処のどこにもない。先師如淨は、法堂にお出ましの時、常々「宏智は古仏である」と仰せられた。ほかの者をそのようにいうことは全くなかった。人を知る眼があれば、仏祖の心を知ることができるのである。よってもって洞山の門に仏祖のましますことが知れる。いま宏智禅師を去ること八十余年であるが、わたしは、かの坐禅箴をみて、次のような坐禅箴を製作した。いまは仁治三年の三月十八日である。今年より紹興二十七年十月八日(宏智の没年)にいたるまでを遡って数うれば、わずかに八十五年である。(道元:正法眼蔵)

原文「宏智禅師の坐禅箴、かくのごとし。諸代の宿老のなかに、いくだかくのごとくの坐禅箴あらず。諸法の臭皮袋、もしこの坐禅箴のごとく道取せしめんに、一生に生のちからをつくすとも、道取せんことうべからざるなり。いま諸法にみえず、ひとりこの箴のみあるなり。先師上堂のとき、よのつねにいはく、宏智古仏なり。自余の漢を恁麼いふこと、すべてなかりき。知人の眼目あらんとき、仏祖をも知音すべきなり。まことにしりぬ、洞山に仏祖あることを。いま、宏智禅師よりのち八十余年なり。かの坐禅箴をみてこの坐禅箴を撰す。いま仁治三年壬寅三月十八日なり。今年より紹興二十七年十月八日にいたるまで、前後を算数するにわづかに八十五年なり。」