「さらに、水が清らかにして底に徹し、魚が悠々として游いでいるという。水が清いというのは、空にある水は清らかな水というには差し支えがあろう。ましてや、この世界にひろく行きわたっている水は、水清らかという水ではない。ただ、はてしなくして岸辺もないのが、徹底の清らかな水というものである。魚がもしこの水のなかを行くとする  ならば、行くとはいえ、いやその行程いく方里に及ぼうとも、その行は測ることもできず、窮まるところもないであろう。目測する岸もなく、浮かぶ雲もなく、沈む底もないのであるから、誰も測量することはできない。測ろうとしてもただ徹底の清水のみである。坐禅のありようは、その魚の行くがごとく、千万の行程がありとも、誰も測ることはできない。その徹底透脱の行程は、すべて鳥飛んで行くことなしというところである。」

原文「水清徹底兮、魚行遅遅、水清といふは、空にかかれる水は清水に不徹底なり。いはんや器界に泓澄する、水清の水にあらず。辺際に涯なき、これを徹底の清水とす。魚もしこの水をゆくは、行なきにあらず。行はいく万程となくすすむといへども、不則な不窮なり。はかる岸なし、うかむ岸なし、うかむ空なし。しずむそこなきゆゑに、測度するたれなし。測度を論ぜんとすれば、徹底の清水のみなり。坐禅の功徳、かの魚行がごとし。千程万程、たれか朴度せん。徹底の行程は、拳体の不行鳥道なり。」