「さらに、最後に、空は広くして限りもなく、鳥ははるけくも飛んでゆくという。空が闊いとてうのは、天にかかっているからではない。天にかかっているような空は、とても闊い空とはいいがたい。ましてや、此処にもある彼処にもあるというような空は、とてもひろい空とはいえない。ただ、見える見えないにかかわらず、表もなく裏もない空にして、はじめて闊い空らなのである。鳥がもしその空を飛べば、それが空を飛ぶというものの一つのありようである。その空を飛ぶあとは測ることができない。その飛ぶ空はこの世界のすべてにわたる。この世界のことごとくが飛ぶ空であるから、その飛ぶこと、いくはくなりと知ることはできない。測ることをきないところを表現するに、いま「杳杳」というのである。はるかにして知りがたいというのである。まさに「足下に一糸をもとめずして去るべし」である。けだし、空が飛び去るときには、鳥も飛び去り、鳥の飛び去るときには、空もまた飛び去るのである。その飛び去り方をいうべきことばを求むれば、「ただここに在り」というところである。それが坐上のいましめである。どこに行こうとも、いつでも勇躍して「ただここに在り」というのがよいのである。」

「空闊莫涯兮、鳥飛杳杳、空闊といふは、天にかかれるにあらず。天にかかれる空は空闊にうらず、いはんや彼此に普遍なる闊空(かっくう)にあらず。穏顕に表裏なき、これを闊そらといふ。鳥もしこの空をとぶは、飛空の一法なり。飛空の行履はかるべきにあらず。飛空は尽界なりね尽界飛空なるがゆゑに。この飛いくそばくといふことしらず問いへども、朴度(ぼくたく)のほかの道取を道取に、杳杳と道取するなり。直須足下無糸去なり。空の飛去(ひこ)するとき、鳥も飛去するなり。鳥の飛去するに、空も飛去するなり。飛去を参究する道取にいはく、只在這裏(しざいしゃり)なり。これを兀兀地の箴なり。いく万程か只在這裏をきほひいふ。」

「只直須足下無糸去」 ただちにすべからくそっかにいとなくしてされとよむ。あとをとどめずに往けという意。「只在這裏」ただしゃりとよむ。這裏はここのという。ただここにありとは現在の刹那に徹する。