「坐禅箴」「仏祖が要めとなしたもう心の動きは、思量せずして現じ、渉入せずして成ずるのである。思量せずして現ずるがゆゑに、その現ずるところはおのずからわが身心に親しく、涉入せずして成ずるがゆゑに、その成ずるところはおのずから真実にかなう。その現ずるところがおのずから親しければ、そこにはまったく混りけんがなく、その成ずるところがおのずから真実にかなっておるから、そこにはいささかの偏りもない。全く混りけりなくわが身心に親しいのであるから、もはやなにも捨てることなくして身心脱落がなるのでのであり、いささかの偏りもなくして真実にかなっているのであるから、もはやなんの図らうところもなくして坐禅修行がなるのである。水清らかにして地に徹し、魚行いて魚に似たり。空闊して天に透り、鳥飛んで鳥の如し。かの宏智禅師の坐禅箴は、けっして、その表現いまだしというわけではないが、また、このように言うこともできるであろう。およそ仏祖の流れを汲む者は、かならず坐禅を一大事として学ぶがよい。それが仏祖正伝のしる汙しというものである。正法眼蔵坐禅箴仁治三年三月十八日、興聖宝林寺にありて記す。同四年冬十一月越州吉田県吉峰精舎にありて衆に示す。

原文「坐禅箴」仏仏要機、祖祖機要。不思量而現、不回互而成。不思量而現、其現自親、不回互自成、其成自証。其現自親、曾無染汙。其成自証、曾無正偏。曾親無委而脱落。曾無正偏之証、其証無図而功夫。水清徹知兮、魚行似魚、空闊透透天兮、魚飛如鳥。宏智禅師の坐禅箴、それ道未是にあらぞれども、さらにかくのごとく道取すべきなり。おほよそ仏祖の児孫、かならず坐禅を一大事なりと参学すべし。これ単伝の正伝なり。正法眼蔵坐禅箴 仁治三年壬寅三月十八日、記興聖宝林寺。同四年癸卯冬十一月在越州吉田県吉峰精舎示衆示。