天童如浄古仏示した「諸仏は必ず嗣法ということがある。釈迦牟尼仏は迦葉仏に嗣法した。迦葉仏は拘那含牟尼仏に嗣法した。拘那含牟尼仏は拘留孫仏に嗣法したものである。このようにして、仏より仏に相嗣いでいまにいたるしと信受するがよい。それが仏法を学ぶみちである。その時、わたしは申していった。「迦葉仏が涅槃に入られてから、釈迦牟尼仏がはじめて世にいでて成道せられました。ましてや、また現在却の諸仏がどうして過去却の諸仏に嗣法いたしましょうか。このこと、いかがな道理でありましょうか」すると先師はいった。「そなたがいうところは、ただ教えを聴く者の解釈である。十聖・三賢など、なお究極の境地にいたらぬものの道である。仏祖正伝の道ではない。わしが仏から仏へと相伝してきた道はそうではない。釈迦仏はまさしく迦葉仏にが嗣法しと習ってきた。釈迦仏が嗣法してからのち、迦葉仏は涅槃に入ったと学んできたのである。釈迦仏がもし迦葉仏に嗣法しなかったならば、それは自然(じねん)外道とおなじであろう。誰か釈迦仏を信ずるものがあろう。そのようにして仏から仏へと相嗣いで今に到っておるから、いずれの仏も正しい方の嗣ぎ手である。連続しているか、一緒であるかということではなく、まさにそのようにして仏と仏とが相嗣ぐのだと学ぶのである。もろもろの小乗のやからがいうところの、劫だの寿だのの尺度にはかかわらないのである。も死も仏道が、ひとり釈迦仏にはじまるというならば、まだわずかに二千年余のことである。れっして古くはない。その相嗣ぐところもなおわずかに四十余代にすぎない。まだ新しいといってよかろう。この仏道の相で南はそのように学ぶべきではない。釈迦仏は迦葉仏に嗣法したと学ぶのである。そのように学んでこそ、まさに諸仏・諸祖の嗣法というものなのである。」その時、わたしは、はじめて仏祖に嗣法ある所以を領解することをえたのみならず、また、それまでの旧い穴から脱け出ることができたのである。正法眼蔵・嗣書」

