「その釈尊の仏会がまだ半ばにいたらないころ、文殊ははやくも忖度し、仏は未曾有の大法を説きたもうのだと、弥勒菩薩に予言した。それも法華の転ずるところである。普賢も諸仏も文殊も、大会もむ、すべて「初めも善く、中も善く、終わりも善き」法華の転ずるところと、ぴたりと見抜いていたのだあろう。だからこそ、その仏会は「ただ一乗をもって一大事となす」ために成立したのであり、また、その成立が一大事なるがゆえにこそ「ただ仏と仏とのみ、すなわち能く諸法の実相を究尽す」とあるのである。だからこそ、そこに説くところは疑いもなく一乗仏であって、かならず仏が仏に究めしめる。かの七仏も諸仏もそれぞれに諸仏をして究尽せしめ、あるしゃかいは釈迦牟尼仏を成道せしめるのである。西の方天竺、東の方中国らいたるまで、十方の仏土において然るのであ。代三十三祖慧能大和尚にいたるまで、ただ仏と仏とののみが一乗の法を究尽しきたったのであり、それが疑いもなくただ一仏乗の一大事なのである。(道元:正法眼蔵・法華転法華)

原文「釈尊の仏会いまだなかばにあらざるに、文殊の惟忖(ゆいじゅん)すみやかに弥勒に授記記する法華転あり。普賢・諸仏・文殊・大会、ともに初中後善の法華転を知見波羅蜜なるべし。このゆゑに、唯以一乗、為一大事として出現せるなり。この出現、すなはち一大事なるがゆゑに「唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相」とあるなり。その法かならず一仏乗にして、唯仏さだめて唯仏に究尽せしめるなり。諸仏七仏、おのおの仏仏に究尽せしめ、釈迦牟尼仏に成就せしむるなり。西天竺・東震旦にいたる。十方仏土中なり。三十三祖大鑑慧能禅師にいたるも、すなはち究尽にてある唯仏一乗法なり。唯以のさだめて一大事なる、一仏乗なり。