「かくて火宅にあっても悟るべき法もまなく、露地にあっても識るべき法はない。この三界の輪廻をすてて白牛車らに乗ろうとするのは誰か、開示悟入を門として出入するのは誰か。火宅をいでて車に乗らんとするには、いくばくの輪廻を経ればよいのか。露地より火宅を望めば、その相去ること遠し。露地にあれば霊山の安穏なるも推し量られ、霊山にあれば露地の平坦なるもしのばれる。「衆生の遊楽するところ」をもって「わが浄土は毀(こばた)れず。と、この世に常在したのは何びとであったか。静に思いめぐらしてみるがよい。この経はまたいう「一心に仏を見んと欲す」その見仏とは自分を仏と見るのか。また他に仏があるのを見ることなのか。釈迦牟尼仏はかって、分身として成道したこともあり、全身をもって成道したこともある。また、「倶に霊鷲山に出ず」というは、みずから身命を惜しまないからである。あるいは、「常にここに住して法を説く」との開示があり、方便にして涅槃を現ず」との悟入がある。「近しといえども見ず」というが、つねにそれもわが一心のゆえであることを信ぜぬものはあるまい。まことにこの土は「天人常に充満」するところ、すなわち、釈迦牟尼仏・毘盧遮那仏の国土にして、常寂光土にほかならない。われらはおのずから四土を具するというが、詮ずるところは、生仏一如の仏土に住するのである。(道元:正法眼蔵・法華転法華)

原文「このゆゑに、火宅も不会なり、露地も不識なり。輪転三界を、たれかくるまと一乗せん。開示悟入を、たれか門なりと出入せん。火宅よりくるまをもとむれば、いくばくの輪転ぞ。露地より火宅をのぞめば、そこばくの深遠のみなり露地に霊山を安穏せりや究尽せん。霊山に露地の平坦なるとや修行せん。衆生所遊楽を我浄土不毀と常在せるをも、審細に本行すべきなり。

原文「このゆゑに、火宅も不会なり、露地も不識なり。輪転三界をたれかくるまと一乗せん。開示悟入を、たれか門なりと出入せん。火宅よりくるまをもとむれば、いくばくの輪転ぞ。露地より火宅をのぞめば、そこばくの深遠のもなり。露地に霊山を安穏せりとや究尽せん、霊山露地の平坦なるとや修行せん。衆生所遊楽を我浄土不毀と常在せるをも、審細に本行すべきなり。一心欲見仏は、みずからなりとや参究する、他なりとや参究する。分身と成道せしときあり、全身と成道せしときあり。倶出霊鷲山は、身命を自惜せざるによりてなり。常住此説法なる開示悟入あり。方便現涅槃なる開示悟入あり。而不見の雖近(すいごん)なる、たれか一心の会不会を信ぜざらん。天人常充満のところは、すなはち釈迦牟尼仏・盧舎那の国土、常寂光土なり。おのづから四土に具するわれらするわれら、すなはち如一の仏土に居するなり。」

「常寂光土」四土のひとつ。生滅なく(常)、煩悩なく(寂)智慧の光のみみちあふれている国土という。それは法身の仏たる毘盧遮那の国土であるとする。ただここでは釈迦牟尼仏と毘盧遮那仏の二仏をあげているのは、現身の仏にとっても、法身の仏にとつても、このあるがままの世界が常寂光土であるとするりのである。「四土」この世界の考え方を四種にわかてるもの4/。一は凡聖同居の世界。二は方便の世界、山には因果、四には常寂光の世界である。