「転法華ということ」また、「心悟れば法華転ず」という。ここでは法華を転ずるのである。さきにいうところの法華がわれらを転ずる力を究めつくすとき、我らは翻って自己を転ずるような力を実現するにいたる。その実現を「転法華」という、これまでの法華を転ずるはたらきは、決して休むことはないけれども、それが自然にはねかえって法華を転ずるのである。驢事はまだ了らないのに馬事が到来するのである。それがこの世に現れる唯一の大事というものである。たとえば、この経が語るところの地より涌きいでる無数の聖修は、久しき昔から法華の修行者たちでであるが、いまや自己を転じて湧出するのであり、また法華に転ぜられて湧出するのである。いや地より涌きいでるのみではない。虚空からも涌き出るのである。さらにいわば、地と空とのみではない。法華より湧きいずると知るがよいのである。いったい、法華の立場にたってみる時は、かならず父は少(わか)く子は老いているものである。子が子でないわけでもなく、父が父でないわけでもない。それでもなお、子は老い父は少しと学がよい。世の不信にならって驚いてはならなぬ。世の不信なるもまた法華のならいである。だから、ある時仏ましまして法華を転ずるのである。すると、仏の開示に転ぜられて地より涌き、仏の知見に転ぜられて地より涌きいずるのであ。(道元:正法眼蔵・法華転法華)
原文「心悟転法華といふは、法華を転ずるといふなり。いはゆる、法華のわれらを転ずるちからから究尽するときに、かへりてみずからを転ずる如是力を現成するなり。この現成は転法華なり。従来の転いまもさらにゆむことなしといへども、おのづからかへりて法華を転ずるなり。驢事いまだをはらざれども、馬事到来すべし。出現於此唯以一大事因縁あり。地涌千界(じゆせんかい)の衆、ひさしく法華の大聖尊なりといへども、みづからに転ぜられて地涌し、他に転ぜられて地涌す。地涌のみを転法華すべからず、虚空涌をも転法華すべし。地空のみにあらず、法華涌とも仏知すべし。おほよそ法華の時は、かならず父少而子老なり。子の子にあらざるにはあらず、父の父にあらざるにはあらず。まさに子は老なり、父は少なりとならふべし。世の不信にならうておどろくことなかれ。世の不信なるは、法華の時なり。これをもって一時仏住を転法華すべし。開示悟入に転ぜられて地涌し、仏之知見に転ぜられて地涌す。」(道元:正法眼蔵・法華転法華)
「驢事はまだ了らないのに馬事が到来する」前者の事のいまだ終わらないうちに、すでに後者のことがはじまっているという意」

