批判2「漢より宗にいたるまでの間にも、あるいは西の方天竺にまで往復し、あるいは人々の教化に力をつくした古老先徳はすくなくなかったが、そのなかにも、風大・火大の動きをもて仏性の働きと思っていたものはすくなくなかった。あわれむべきことである。仏教の学び方が疎漏であったためにこの誤りをおかしたのである。いま仏教を学ぼうとする後学初心のものはそうではいけない。たとい覚知を学んでも、覚知とはそんな心の動きではない。たとい心の動きを学んでも、心のはたらきはそんなものではない。もし本当のこ心のはたらきを会得できれば、本当の覚知もわかる筈である。「仏りの性とは、かれに達しこれを達す」という。仏性はかならず悉有である。悉有が仏性であるからである。悉有とはばらばらになったものではなく、また鉄のかたまりのようなものでもない。あるいは雲水が拳骨をつきだすあれであって、大でも小でもない。またすでに仏性というからには、もろもろの聖者とならべていうべきでもない。それは仏性と比すべきものではない。(道元:正法眼蔵・仏性)
原文「往往に古徳先徳、あるいは西天に往還(おうげん)し、あるいは人天を化道する。、漢唐より宋朝にいたるまで、稲麻竹葦(とうまちくい)のごとくなる。おほく風火の動著を仏性の知覚とおもへる。あはれむべし。学道転疏(うたた)なるによりて、いまの失誤あり。いま仏道の晩学初心、しかあるべし。たとひ覚知を学習すとも、覚知は動著にあらざるなり。たとひ動著を学習すとも、動著は恁麼にあらざるなり。もし真箇の動著を会取することあらば、真箇の覚知覚了を会取すべきなり。仏之与性達彼達此なり。仏性かならず悉有なり。悉有は仏性なるがゆへに。悉有は百雑砕にあらず悉有は一条鉄にあらず。拈拳頭なるがゆへに大小にあらず。すでに仏性という。諸聖と斎肩なるべからず、仏性と斎肩すべからず。」
「風火」 存在を江西する要素としての地・水・火・風(それが四大である。)のうち、心意識の動きは風大・火大のうごきによって起こるものとするのである。
「之与性達彼達此」:仏と性とはまったく差別すべからずものであるから、仏を突き詰めてゆけば性に達し、性を究ればついに仏にいたるという意。

