「ある一部の人々は、仏性は草木の種子のようなものだという。それは法雨のきたって、しきりと潤すとき、芽を出し、茎を生じ、枝や葉をひろげ、花をひらき果をむすぶにいたり、さらにその果は種子をはらむ。だか、そのように考えるのは凡夫の測らいというものである。たとえそのような見方をしても、その種子とその花の果は、それぞれ別々の心の姿と考えてみるがよい。果のなかに種子があったり、種子のなかには見えないけれど根や茎があったり、あるいは、どこから集めてくるわけでもないが、そこばくの枝や葉を出して繁りはこびる。そんな内か外かの問題でもなく生じる生じないの問題でもない。これは古今にわたって空しからぬものである。だから、たとい一応は凡夫の見解にまかせるとしても、ここでは根も茎も葉も、すべてが同事に生じ同事に滅するものと知らねばならない。おなじく悉有なる仏性だからである。(道元:正法眼蔵・仏性)
原文「ある一類おもはく、仏性は草木の種子のごとし、法雨のうるほひしきりにうるほすとき、芽茎生長し、枝葉花果もすことあり。果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果、ともに条条の赤心なりと参究すべし。果裏に種子あり、種子みえざれども、根茎等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝条大囲となれる。内外の論にあらず、古今の時に不空なり。しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、株茎枝葉、みな同生し、同死し、同悉有なる仏性なるべし。」(道元:正法眼蔵・仏性)

