教外別伝の主張を反駁」「ある男がいう。釈迦はむかし祖の生涯にわたって経典を説示したが、その他にまたすくれた一心の法を摩訶迦葉に正伝した。それは正しい嗣ぎ手から正しい嗣ぎ手へと相承していまにいたっている。だから、その教というのは機に応じててのたわむれの議論であって、その一心こそ真実の道理である。その正伝した一心を教外別伝という。それは三乗十二分教、すなわちすなわちもろもろの経典の語るところとは、まったく別のものである、と。また、祖の一心こそ最上のものであるから直指人心、見性成仏と説くのである。そのいい方はけっして仏教のものではない。そこには自由にいたる活路もなく、全身にそなわる修行の輝きもない。そんな男は、たとい数百数専念の先輩であろうとも、そんなことをいうようでは、仏法も仏道もまだ解ってはいない。通じてはいないのだと知るがよい。なでかというならば、彼らはまだ、仏も知らないし、教も知らない、心もしらない、内も知らない、外もわかってはいないからである。なぜ知らないからといえば、いまだかって仏法をきかないからである。(道元:正法眼蔵・仏教)
原文「ある漢いはく、釈迦老漢、かって一代の経典を宣説するほかに、さらに上乗一心の法を摩訶迦葉に正伝す、嫡嫡相承しきたり。しかあれば、教は赴機の戯論なり、心は理性の真実なり。この正伝する一心を教外別伝といふ。三乗十二分教の所談にひとしかるべきにあらず。一心上乗なるゆゑに、直指人心、見性成仏なりといふ。この道取、いまだ仏法の家業にあらず。出身の活路なし、通身の威儀あらず、かくのごとくの漢、たとひ数百千年のさきの先達と称すとも、恁麼の説話あらば、仏法仏道にあきらめず、通ぜざりけるとしるべし。ゆゑはいかん、仏をしらず、教をしらず、心をしらず、内をしらず、外をしらざるがゆゑに。そのしらざる道理は、かって仏法をきかざめによりてなり。(道元:正法眼蔵・仏教)
「上乗とは、最高の教法としての大乗または上乗という。最も勝れたるの意」「赴機とは応機におなじ。衆生の機根に応じての意である。」「戯論とは、いいかげんなな言説」「理性とは、仏教では事に対して理ということばをもちいる。現象的なものに対して本質的なるもの、原則的なるものをいうのであろう。それはまた移り変わるものではないから性をもって称するのである。」「教外別伝とは、それが禅宗の建前であることは広く人のしれるところである。その意は、直指人心とは、直接に人心をゆびさすことば。見性成仏とは、わが本性を見究めることによって、仏となると言うほどの意」「出身の活路・通身の威儀とは、証をえて差別相の世界を出でて自由闊達の境にいたること。通身の威儀とは、その妙修の功徳がおのずからその全心に具わること」

