仏教とはなか「だから、朝(あした)に成道して夕(ゆうべ)に入滅する仏たちも、けっして功徳がないとはいえない。もしも、一日では功徳がすくないというならば、釈尊のこの世界における八十年だってながいわけではあるまい。その八十年をもって十劫二十劫に比したならば、それは一日と八十年のようなものであろう。その長劫にわたる寿命と八十年の寿命だけをとりあげて比ぶれば、むろん比べものにはならない。だが、かの仏の功徳とこの仏の功徳とを比べて優劣を云々することはできない。なんとなれば、仏の教えとはとりもなおさず教える仏である。仏祖が究めつくしてきた功徳なのである。もろもろの仏は広大であるが、その教法は矮小であるというようなことはありえない。つまり、もし仏が大であれば教もまた大である。仏がもし小であれば教もまた小である。かくて知らねばならぬ。仏と教とは大小の量をもっていうべきものでもなく、善いの悪いのとわかち語るべきものではなく、あるいはまた、自己のための教えでもなく、他人のための教えでもないのである。」(道元:正法眼蔵・仏教)

原文「このゆゑに、朝に成道して夕に涅槃する諸仏、いまだ功徳かけたりといはず。もし一日は功徳すくなしといはば、人間の八十年ひさしきにあらず。人間の八十年をもと十劫二十劫に比せんとき、一念と八十年とのごとくならん。此仏彼仏の功徳、わきまへがたからん。長劫寿量の所有の功徳と、八十年の功徳とを挙してて比量せんとき、疑著するにもおよばざらん。このゆゑに、仏教はすなはち教仏なり、仏祖究尽の功徳なり。諸仏は高広にして法教は狭小にあらず。まさにしるべし、仏大なるは教大なり、仏小なるは教小なり。このゆゑにしるべし、仏及び教は、陀小の量にあらず、善・悪・無記の性にあらず、自教他教のためにあらず。」(道元:正法眼蔵・仏教)

「仏教・教仏」仏と教との同一性を語らんとして仏教を転置して教仏というのである。仏の教えはまた教の仏にほかならないとするのである。