「たとえば、いま諸仏という。その諸仏の本末がどうかも知らず、どこから来てどこに去るかも学ばないのであるから、とうてい仏弟子であるとはいいえないのである。あるい、ただ一心を正伝して、仏り教えを正伝しないなどというのも、仏法をしらないからである。仏の教えが一心であることも知らず、一心がすなわち仏の教えであることも学ばないから、一心のほかに仏の教えがあるなどという。その汝がいう一心は、まだ一心ではあるまい。また仏の教えのほかに一心があるなどという、その汝がいう仏の教えとは、けっして仏の教えであるまい。たとい教外別伝の説を相伝したのだといっても、汝はまだ内も外も知らないのだから、言葉と道理が符号しないのである。いったい、仏の正法の眼睛をじきじきに伝えられた仏祖が、どうして仏の教えを伝受しなかった筈があろうか。ましてや釈尊が、なんとしてか仏教にあるべからざる教法を設けられるはずがあろうぞ。すでに釈尊に直伝の教法があったならば、いずれり仏祖もそれを無からしむる筈はない。かくて、上乗の一心というのは、三乗十二分教がそれである。大乗の経典ならびに小乗の経典のことごとくがそれである。」(道元:正法眼蔵・仏教)
原文「いま諸仏といふ、本末いかなるとしらず、去来の辺際すべて学せざるは、仏弟子と称するにたらず、ただ一心を正伝して、仏教を正伝せずといふは、仏法をしにざるなり。仏教の一心をしらず、一心の仏教をきかず、一心のほかに仏教ありといふ、なんぢが一心、しまだ一心ならず。仏教のほかに一心ありといふ、なんぢが仏教、いまだ仏教成らざらんるたとひ教外別伝の謬説を相伝すといふとも、なんぢいまだ内外をしらざれば、言理の符号あらざるなり。仏世嗣法眼蔵を単伝する仏祖、いかでか仏教を単伝せざらん。いはんや釈迦老漢、なにとしてか仏家の家業にあるべからざらん教法を施設することあらん。釈迦老漢、すでに単伝の教法をあらしめん、いづれの仏祖かなからしめん。このゆゑに、上乗の一心といふは、三乗十二分教これなり、大蔵小蔵これなり。」(道元:正法眼蔵・仏教)

