すなわち、釈尊の正伝の眼目・最高の智慧は、ただ摩訶迦葉に正伝されたのであり、他の者には正伝しなかった。したがって正法はどうしても摩訶迦葉によらなければならない。そのゆえに、古今の仏教者の真実をまなぼうとするものはすべて、古来よりの教学のいずれを択びとるかにあたっては、かならず仏祖に参ずるのである。その袂を他の者に問うもはない。もし仏祖の袂をえないものは、まだ正しい袂ではない。依るべき教えの適否を決しようとする者は、仏祖によって決すべきである。なんとなれば、すべての教えの本当の主は仏祖であるからである。あるいは有といいもまた無という。あるいは空といい、また色という。ただ仏祖のみがそれを諦観し正伝しきって、古仏としてまた今仏としてあるからである。」(道元:正法眼蔵・仏教)

原文「釈尊の正法眼蔵無常菩提は、ただ摩訶迦葉に正伝せしなり。余子にせいでんせず。正伝はかならず摩訶迦葉なり。このゆゑに、古今に仏法の真実を学する箇箇、ともにみな従来の教学を決択するには、かならず仏祖に参究するなり、袂を余輩にとぶらはず。もし仏祖の正袂をえざるは、いまだ正決にあらず。依教の正不を決撰とおもはんは、仏祖に決すべきなり。そのゆゑは、尽法輪の本主は仏祖なるがゆゑに。道有道無、道空道色、ただ仏祖のみこれをあきらめ、正伝しきりて、古仏古今なり。(道元:正法眼蔵・仏教)