「眼を遮るとは」「いま、わしは眼を遮るものがほしい」というのは、眼を遮るそのことをぃっておるのみである。眼を遮ることは、眼をうしなうことであり、経をなくすることである。全ての眼を遮するのであり、全く遮られた眼である。だが、ここで眼を遮するとは、遮の中において開眼するのであり、遮の中において活眼をうるのであり、眼の中にあって遮がいきるのである。さらにいわば、眼の皮のうえにさらに一枚の皮を加えるのであり、遮の中あって眼を生かすのであり、また眼そのものが遮を生かすのである。だからして、眼晴そのものが経でなくては、経をもって眼を遮ることの効果はありえないのである。また、「牛皮もまた穴をあけるだろう」という。その牛はすべて皮であり、その皮はすべて牛である。牛をひねって皮となすのである。だから、その皮肉骨髄、頭角鼻孔をもって牛の生ける姿とする。かくて、和尚をならい学ぶ時、牛は睛眼となる。それが眼を遮るというのであって、そのとき眼睛は牛となるのである。」(道元:正法眼蔵・看経)
「いま我要遮眼の道は、遮眼の自道処なり。遮眼は打失眼睛なり、打失経なり。渾眼遮なり、渾遮眼なり。遮眼は遮中開眼なり。遮裏活眼なり、眼裏活遮なり、眼皮上更添一枚皮なり。遮裏拈眼なり、眼自拈遮なり。しかあれば、眼睛晴経にあらざれば遮眼の功徳いまだあらざるなり。牛皮也須穿(しゅせん)は、前牛皮なり、全皮牛。拈牛作皮なり。このゆゑに、皮肉骨髄・頭角鼻孔は牛牸(ぎゅうし)の活計とせり。学和尚のとき、牛為眼晴なるを遮眼とす、眼睛為牛なり。」(道元:正法眼蔵・看経)
「拈眼・拈遮」拈派ひねる。ねじる。よって眼を生かす、遮は生かすとの意か。

