「仏法を言語・文字をとおして学ぶ経蔵や論蔵の学者達でさえ、仏道を遠くから伝え聞いて、なお「法性に於いて法性の見を起こす。すなわちこれ無明なり」という。その学僧のいうところは、法性においていろいろの分別・主張をたてることを、法性の縛とはいわずして、別に無明の縛という表現を用いている。法性に縛のあることを知らないのは憐れむべきことではあるが、さらに無明の縛のあることを知っているのは、菩提心をおこすべき種子となるであろう。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)
原文「経家・経師・論師等の仏道を遠聞せる、なほしいはく「即於法性。起法性見、即是無明」この経家のいはくは、法性に法性の見おこるに、法性の縛をいはず、さらに無明の縛をかさぬ。法性の縛あることをしらず。あはれむべしといへども、無明縛のかさなれるをしれるは、発菩提心の種子(しゅうじ)となりべし。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)
即於法性とは、法性とは、一切の存在のあるがままのありよう。法の本然の性である。それに眼を開くことが仏法の基底であるが、それについていろいろの説をなし、主張をたてるを「法性の見」となし、それは無知無明というものだという。」

