「いったい行仏は、本覚を愛せず、始覚を執せず、覚らざるにもあらすず。覚せられるにもあらずというが、そりれはつまり、このことである。いま凡夫たちがのいうところの、有念・無念とか、有覚・無覚とかね、あるいは始覚・本覚などというのは、みんな凡夫の計らいに過ぎないのであって、仏より仏へし相承したものではない。凡夫の有念ともろもろの仏の有念とでは、まるで違ったものであって、比べていうべきものではない。凡夫が本覚陀と思うものと、諸々の仏これが本覚だと証ったものとでは、天と地ほと゜のちがいがあって、とても比べて論ずることはできない。十聖・三賢などの修行者たちの測ろうところでも、なおもろもろの仏のいうところには及びがたい。ましてや、ただいたずらに言語・文字に拘泥するのみの凡夫が、どうして測り知ることができようか。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)
原文「行仏は本覚を愛せず、始覚を愛せず、無覚にあらず、有覚にあらずといふ、すなはちこの道理なり。いま凡夫の活計する有念無念・有覚無覚・始覚本覚等、ひとへに分布の活計なり、仏仏相承せるところにあらず。凡夫有念と諸仏の有念と、はるかなことなり、非擬することなかれ。凡夫の本覚と活計すると、諸仏の本覚と証すると、天地懸隔なり。比論の所及にあらず。十聖三賢の活計、なほ諸仏の道におよばず。いたづらなる算沙の凡夫、いかでかはかることあらん。(道元:正法眼蔵・行仏威儀)

