「玄沙のことばはそのようであるから、仏法を学びいたる者の尺度となすことができるる。それには、経・論の学者たちがいうところの、大乗の性相だの、小乗の性相だのの論にかかわりなく、唯一筋に、仏祖の正伝しきたった性相を学びいたるがよい。いまいうところの三世の諸仏の聴法がそれである。それは、大乗の性相にも、小乗の性相にもないところである。そこでは、仏は衆生の機や縁にしたがって説法するものとのみ知って、諸仏が聴法するなどとは知らない。また、諸仏が修行するともいない。あるいは、諸仏が成仏するなどともいわない。しかるに、いま玄沙のことばには、三世の諸仏が地にたって法を聴くという。諸仏には法を聴く性があり、また相があるのである。だから、かならず法を説く者のみが勝れていて「よくこの法を聴く」を劣れりとしてはいけない。説く者が尊ければ、聴く者もまた尊いのである。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)
原文「玄沙の道かくのごとくなりといへども、参学の力量とすべきところあり。いはゆる経師論師の大乗小乗の局量の性相(しょうそう)にかかはれず、仏仏祖祖正伝する性相を参学すべし。いはゆる三世諸仏の聴法なり、これ大小乗の性相にあらざるところなり。諸仏は機縁に逗(とう)ずる説法ありてのみしりて、諸仏聴法すといはず、諸仏修行すといはず、諸仏成仏すといはず。いま玄沙の道には、すでに三世諸仏立地聴法といふ、諸仏聴法する性相あり。かならずしも能説すぐれたりとし、能聴是法者を劣なりといふことなかれ。説者尊なれば聴者も尊なり。(道元:正法眼蔵・行仏威儀)
に逗「性相」性とは、存在の本性であり、相とは、その現れとしての姿や働きである。本体論と現象論であるといってもよく、その二つのながれがこれまでの仏教学の主流をなしている。「機縁」人間の側においてまさに動き出さんとする心の微妙なうごきと、それを発動せしめる外なる条件をいう。に逗「性相」性とは、存在の本性であり、相とは、その現れとしての姿や働きである。本体論と現象論であるといってもよく、その二つのながれがこれまでの仏教学の主流をなしている。「機縁」人間の側においてまさに動き出さんとする心の微妙なうごきと、それを発動せしめる外なる条件をいう。「逗」とどまるの意。「能説」とは能所の能であり能動であり、所とは受動である。能説は説法をする人のがわと言うほどの意か。

