「釈迦牟尼仏はいった。「もしこの経を説けば、それはとりも直さず私を見ることである。ただ一人のために説くことも、またはなはだしく難しことである」とするならば、よく法を説くことは、そのまま釈迦牟尼仏にまみえることである。それがとりも直さず「わたしを見ることだ」とは釈迦牟尼仏のことだからである。釈迦牟尼仏はまたいった。「わがなき亡(な)きのちにおいて、この経を聴きて受持し、よくその意味をたずねることも、またはなはだ難しいことである」それによっても知ることができる。聴きて受持することもまた「難しいこと」であって、けっして劣れることではない。地に立って聴くという。たとい最尊の諸仏であっても、地に立って法を聴くことがあって、すこしも不思議ではないのである。その立地・聴法は、三世の諸仏のことであるから、仏となってからのことである。けっしてまだ修行中の聴法をいうのではない。だから、三世の諸仏とあるのである。 (道元:正法眼蔵・行仏威儀)
原文「釈迦牟尼仏のいはく、「若説此経、則為見我、為一人説、是則為難」しかあれば、能説法は釈迦牟尼仏なり、則為見我は釈迦牟尼仏なるがゆゑに。またいはく、「於我滅後聴受此経、問其義趣、是則為難」しるべし、聴受者もおなじくこれ為難なり、勝劣あるにあらず。立地聴これ最尊なる諸仏なりといふとも、立地聴法あるべきなり。立地聴法これ三世諸仏なるかゆゑに。諸仏は果上なり、因中の聴法をいふにあらず。すでに三世諸仏とあるがやゆゑに。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)
「果上・因中」とは、因中とは、修行の道程にあることをいい、果上とは、修行の結果として仏になれることをいう。んくして諸仏の聴法は。因中の聴法にあらずということになる。

