長老の見解に対する批評」「まず、国師が三蔵を試みる意味を知らぬというのはこうである。最初に国師は「わたしはいま何処におるか、行ってみるがよい」といった。その意味は、いったいこの三蔵は、仏法をしっているか、もしくは知らないかを諮問しているのであるから、もし三蔵が仏法を聞いたことがあるならば、「わたしはいま何処におるか」と問わるれば、、それは仏法にならって受け取らねばならぬ。仏法にならって受け取るというのは、国師がいまどこにおるかというのを、この辺りか、どの辺りか、あるいは、最高の悟りか、おおいなる智慧か、あるいはまた、空にかかっているか、地に立っているか、草庵にあるのか、涅槃にあるかと問うているのである。三蔵はその意味を知らないから、いたずらに凡夫・小乗の見解をもって答えた。国師はかさねて「言ってみるがよい。いまわたしは何処におるのか」と問うた。だが、三蔵はまたもや無駄な返答をした。そこで国師が、三度かさねて同じ問いを繰り返した時、こんどは三蔵もしばらく考えていたが、なんと言うところも知らず、ただ茫然たるのみであった。そこで国師は、執陀して「此の野狐精め、なんじの他心通はいったいどこにあるのじゃ」4といった。それでも三蔵はなんのいうところもなかった。」(道元:正法眼蔵・心不可得(後))

原文「しばらく国師の三蔵を試験する意趣をしらずといふは、第一番に国師いはく、汝道老僧即今在什麼処と、いふこころは、三蔵もし仏法をしれりや、いましらずやと諮問するときも三蔵もし仏法をきくことあらは゛、老僧今在什麼処ときくことばを、仏法にならふべきなり。仏法にならふといふは、国師の老僧いまいづれのところにかあるといふは、這辺にあるか、那辺にあるか、無上菩提にあるか、般若波羅蜜にあるか、空にかかれるか、地にたてるか、草庵にあるか、宝所にあるかとふなり。三蔵このこころをしらず、いたづらに凡夫二乗等の見解をたてまつる。国師かさねてとふ、汝道老僧即今在什麼処。ここに三蔵さらにいたづらのことばをたてまつる。国師かさねてとふ、汝道老僧即今在什麼処。ときに三蔵ややひさしくあれどもものいはず、ここち茫然なり。ちなみに国師すなはち三蔵を叱していはく、這野狐精、他心通在甚麼処。かくいふに、三蔵なほいふことなし。」