「あるとき、童子は外出して、僧伽難提尊者に遇うた。直ちに進み出でて尊者の前にいたると、尊者は問うていった。「なんじが手にもっているのは、いったい、なんの印であるか」それは、ただかの童子の所持品に対する問いではないと思って学ぶがよい。童子は答えていった。「もろもろの仏の大いなる円鑑は、内にも外にも翳(かきり)りがなく、二人がおなじく見ることを得て、その心願は互いに相似ている」とするならば、諸仏の大いなる円鑑は、とげうしてこの童子とともに生まれたのであるか。それは、この童子の生まれきたれるは、大いなる円鑑の光明によってであることを意味する。けだし、もろもろの仏は、おなじくこの円鑑にいたり、みなこの円鑑にまみえるのである。つまり、諸仏はこの大円鑑の鋳像なのである。その大円鑑とは、智でもなく、理でもなく、また、性でもなく、相でもない。十賢・三聖などがまなぶ教えのなかにも、大円鏡智とう名目があるが、それは、いまの諸仏の大円鑑とはちがう。諸仏はかならずしも智慧ではないからである。諸仏には智慧がある。だが、智慧を諸仏とするのではない。仏道を学ぶ者は知らねばならない。智を説くことはけっしていまだ仏道の究極を説くことではないのである。」(道元:正法眼蔵・古鏡)

原文「あるとき、出遊するに、僧伽難提尊者にあうて、直にすすみて難提尊者の前にいたる。尊者とふ、「汝が手中なるは、まさに何の所表かある」有何所表を問著にあらずとききて参学すべし。師いはく、「諸仏大円鑑、内外無暇翳(ないげむけえい)。両人同得見、心眼皆相似」しかあれば、諸仏大円鑑、なにとしてか師と同生せる。師の生来は大円鑑の明なり。諸仏はこの円鑑に同参同見なり、諸仏は大円鑑の鋳像なり。大円鑑は、智にあらず理にあらず、性にあらず相にあらず。十聖三賢等の法のなかにも、大円鑑の名あれども、しまの諸仏大円鑑にあらず。諸仏かならずしも智にあらざるがゆゑに、諸仏に智慧あり、智慧を諸仏とせるにあらず。参学しるべし。智を説著するは、いまだ仏道の究竟説にあらざるなり。」(道元:正法眼蔵・古鏡)

「性にあらず相にあらず」性とは本質である。かわらないものである。相はその現れてあって、さまざまな相状を呈する。本質と現象であるの意」「大円鑑」一切種智ともいう。万法の空なるとともに、またもろもろの差別相あるむあることを知る最高度の智慧である。しかし道元はまだ修行の段階とみている。」