「ともあれ、大円鏡とは、とりもなおさず、諸仏の功徳である。その鏡は、内にも外にも曇りがないという。それは、外に対する内でもなく、内にくもった外のことでもない。表と裏があるのでもなく、その両面がともに見えるのである。心と眼に相似ている。相似ているというのは、人が人に遇うのである。たとえば、内なるかたちについても、心と眼があり、おなじく見ることができる。たとえば、外なる形についても、また心があり眼があり、ともに見ることができる。あるいは、いま目のあたりにある人のすがた・世のすがたも、ともに、内において相似ており、また外においても相似ておる。かくて、我にあらず、誰にあらず、たがいに相見ているのであり、両方が相似ているのである。だから、彼もわれといい、われも彼となるのである。」(道元:正法眼蔵・古鏡)

原文「大円鏡はすなはち諸仏の功徳なり。このかがみ、内外にくもりなしといふは、外にまつ内にあらず、内にくもれる外に4あらず。両背あることなし、両箇おなじく得見あり。心と眼あひにたり。相似といふは、人の人にあふなり。たとひ内の形像も、心眼あり、同得見あり。いま現前せる依報正報(えほうしょうぼう)、内に相似なり、外に相似なり。われにあらず、たれにあらず、これは両人の相見なり、両人の相似なり。かれもわれといふ、われもかれとなる。」(道元:正法眼蔵・古鏡)

「依報正報」身心とその住む世界の意。つまり、正報とは、過去業によって受けたこの身心であり、依報とは、その身心の依りて生きる世間であり、それもまたん過去業によって受ける向くしであるとするのである。ここでは人のすがた、世のすがたと訳した。